2026年10月、京都コンサートホールでは国際的に高い評価を受ける鍵盤楽器奏者 バンジャマン・アラール氏によるチェンバロとパイプオルガンのコンサートを2週連続で開催します。公演に先立ち、アラール氏にインタビューを行いました。
前編では、アラール氏の音楽家としての歩みや、現在取り組んでいる壮大なプロジェクト「J.S.バッハ鍵盤作品全集録音」についてお話を伺いました。後編では、「バンジャマン・アラール チェンバロ・リサイタル」(10/17)と「オムロン パイプオルガン コンサートシリーズ Vol.78 世界のオルガニスト “バンジャマン・アラール”」(10/24)について、聴きどころなどを語っていただきます。
ぜひ最後までご覧ください。

本日は、お忙しいところインタビューのお時間をいただき、ありがとうございます。今秋のコンサートに向けていろいろとお話を伺いたいのですが、まずは、チェンバロとオルガンとの出会いについて教えていただけますか。
――オルガンとの出会いは5歳の頃でした。当時住んでいた街の教会から、どこからともなくオルガンの音が聴こえてきて、「この素晴らしい音は何だろう」と感動したことを今でもよく覚えています。とても鮮烈な体験でした。その後も教会でオルガンの演奏を数多く聴きました。
その頃からオルガンの演奏も始められたのですか?
――演奏を始めたのはもう少し後だったと思います。その教会の司祭様がオルガン奏者でしたので、はじめは個人的に教えていただいていました。ルーアン地方音楽院で本格的にオルガンを学び始めたのは8歳の頃です。すでにピアノを習っていましたので鍵盤楽器に馴染みはありましたが、教会全体を包み込むように響く神秘的なオルガンの音色に魅了され、「やはりオルガンを習いたい」と思ったのです。
チェンバロはいつから始められたのですか?
――チェンバロの演奏をはじめて聴いたのは10歳の頃です。私の生まれ育った街ディエップで、オランダの著名な鍵盤楽器奏者 グスタフ・レオンハルト氏(1928-2012)のコンサートを聴いたことがきっかけでした。本当に衝撃的で素晴らしく、オルガンを聴いた時とは異なる感動がありました。また同じ頃にプレゼントでもらったピエール・アンタイ氏(1964-)のチェンバロのCDも強く印象に残っています。もともとバッハや古楽が好きでしたので、ごく自然とチェンバロに惹かれていき、後にパリ地方音楽院でチェンバロを学ぶこととなりました。最初にレッスンを受けたのは15歳か16歳の頃、夏の講習会でしたね。
2003年にはバーゼルへ留学されていますね。いつからプロの演奏家を志したのですか?
――実は、プロを目指そうと決意したことは一度もありません。ただ音楽への情熱に突き動かされるままに進んできた結果が、今の自分です。バーゼルへ留学したのも、「音楽が好き」「もっと音楽を学びたい」という一心からでした。バーゼルではフランスにいた頃以上に多くのことを学ぶことができました。音楽への扉だけでなく、世界への扉も開いてくれたと言っていいほど、本当に素晴らしい時間でした。
バーゼルへ留学された翌2004年には、18歳で“古楽の最高峰”と称される「ブルージュ国際古楽コンクール」チェンバロ部門で優勝され、2007年には「ゴットフリート・ジルバーマン国際オルガンコンクール」でも優勝されていますね。オルガンとチェンバロのどちらかに主軸を置かれる演奏家が多いなかで、なぜ両方の楽器を極めようと思われたのですか?
――何よりも、「音楽が好き」という気持ちが一番の理由です。そして音楽、そのなかでも古楽を好きになったきっかけは、バッハという偉大な音楽家の存在でした。バッハ自身、チェンバロやオルガンをはじめ、さまざまな鍵盤楽器を弾きこなしていましたので、バッハとその作品を好きになればなるほど、自分も自然とバッハのようにチェンバロとオルガンの両方を演奏するようになったのです。
また、私にとってバッハの音楽を深く理解し、表現するためには、この二つの楽器を極めることが欠かせませんでした。チェンバロとオルガンは、どちらも私にとって必要不可欠な存在です。それぞれの楽器で培った経験が両楽器の演奏に活き、音楽家としての私を形作ってきたのだと思います。
「音楽が好き」という一心で演奏活動を続けてこられたとのことですが、そのなかで、印象的だった出来事、大きな転機となった出来事はありましたか。
――ふたつあります。ひとつは、2006年に初めてレコーディングのお話をいただいた時のことです。チェンバロかオルガンか、どちらか一方を選ばなければならなかったのですが、悩めば悩むほど選ぶことができませんでした。最終的に両方を録音することにしたのですが、そのとき初めて自分はチェンバロとオルガン、2つの楽器の奏者として生きていくのだと自覚しました。私にとって、音楽家としての最初の大きな転機だったと思います。
もうひとつは、2005年か2006年頃、グスタフ・レオンハルト氏のクラヴィコード・リサイタルを聴きに行ったときのことです。本当に素晴らしい演奏で、終演後にレオンハルト氏とお話をする機会がありました。レオンハルト氏とは、2004年にブルージュ国際古楽音楽コンクールで知り合っており、私がチェンバロとオルガン両方を演奏することをご存じだったのですが、「君はクラヴィコード*も弾くのか?」と尋ねられたのです。当時の私は、クラヴィコードは非常に難しい楽器だと思っており、本格的に取り組むことをためらっていました。そのことを伝えると、レオンハルト氏は「クラヴィコードは、鍵盤楽器を演奏するための、より大きな自由を君に与えてくれる楽器だ。将来、君もきっと実感するだろう。」とおっしゃったのです。その後、実際にクラヴィコードに本格的に取り組むようになり、私はその言葉の意味を深く実感しました。クラヴィコードは、私にさらなる音楽的な自由を与えてくれただけでなく、オルガンとチェンバロをつなぐ橋渡しのような存在でもあります。レオンハルト氏の言葉とクラヴィコードとの出会いをきっかけに、私は音楽をより広い世界観で捉えられるようになりました。
*クラヴィコード=14世紀ごろから19世紀初頭までヨーロッパで使われていた、長方形の箱型の打弦鍵盤楽器。
2017年からは、「J.S.バッハ鍵盤作品全集録音」に取り組んでいらっしゃいますね。まるでバッハの生涯を辿るかのように録音されていますが、この壮大なプロジェクトに挑戦しようと思われたきっかけを教えてください。
――J.S.バッハ作品の録音は、これまでにも多くの偉大な演奏家たちが手がけてきました。そのひとつひとつに大きな価値がありますが、私はまた違う視点で、自分だからこそできる新しい形で挑戦したいという思いがありました。
実はこのプロジェクトを始める前、バッハが生きていた間に出版された作品を全集にしたいと録音を進めていたのですが、レーベル側の都合で残念ながら中断せざるを得なくなってしまいました。その後も録音の機会に恵まれず苦しい時間を過ごしていたところ、ハルモニア・ムンディ(現在「J.S.バッハの鍵盤作品全集録音」を行っているレーベル)と出会うことができたのです。しかも「チェンバロとオルガンだけでなく、クラヴィコードも含めた3つの鍵盤楽器でバッハ作品に取り組んではどうか」という提案をいただいたのです。その言葉をきっかけに「年代をたどりながら鍵盤作品に新たな光をあて、バッハの作品を聴かせたい。作品ごとに最もふさわしい楽器を選び、これまでにない視点から新しいアプローチを試みたい」と考えるようになりました。
また、このプロジェクトを後押ししてくれたのが、マネージャーのジャン・マルク氏でした。プロジェクトについて考えていた時に彼と出会い、「君はどんな仕事がしたいのか。何を弾きたいのか」と尋ねられました。「バッハが好きで、彼の作品を全部弾きたい」と答えると、「それなら全部録音しなければいけないね」と背中を押してくれたのです。その一言も、このプロジェクトに取り組む大きなきっかけとなりました。
現在、第 11集まで収録されていますが、本当にさまざまな楽器を使っていらっしゃいますね。録音を進めるなかで見えてきたこと、発見はありましたか?
――このプロジェクトはとても壮大で、常に変化し、進化し続けています。終わりがあるようでいて、終わることがありません。常に新しい可能性が生まれ、新たな選択肢が次々と増え、それが途切れることなく続いています。
実際、すでに録音を終えた作品であっても、「別の楽器で録音したらどうなるだろう」「違うアプローチでもう一度挑戦してみたい」という思いが湧いてきています。常に新しい可能性やアイデアが広がっているのです。
また、楽器や演奏家との新たな出会いも、その可能性を広げてくれます。つい最近も、このプロジェクトとは直接関係のないイタリアのコンサートでとても素晴らしいチェンバロに出会い、「この楽器でバッハを録音してみたい」と強く感じました。人との出会い、楽器との出会い、そして芸術的な刺激によって、新しいビジョンが次々と生まれてくるのです。
録音完成に向けての想いを聞かせてください。
――このプロジェクトの終わりは、とても明確です。最後はJ.S.バッハが生涯の最後に書き残した《フーガの技法》で締めくくることになるでしょう。
ただ、そこにたどり着いたからといって終わりではありません。バッハの作品は膨大で、室内楽や協奏曲など、ほかの楽器とともに取り組める可能性も広がっています。つまり、“私にとってのバッハ・プロジェクトには終わりはない”と言っても過言ではありません。常に新しいアイデアが生まれ、新たな可能性が見えてくる。その探求を続けていくことこそが、私にとってのバッハ・プロジェクトなのです。
ありがとうございます。私たちも続編を楽しみにしています!
(2026年6月 事業企画課インタビュー)
「バンジャマン・アラール チェンバロ・リサイタル」の詳細はこちら
「オムロン パイプオルガン コンサートシリーズVol.78 世界のオルガニスト“バンジャマン・アラール”」の詳細はこちら
